2009年12月04日

卵かけご飯と健康

鶏卵にはコレステロールが多いと言われ敬遠気味にされる事が多く、過去に於いて高脂血症などの症状の患者の食事としては敬遠された事実がある。しかし、近年ではコレステロールの制限を行う高脂血症患者にも卵を勧める医師もいる。これは、高脂血症患者には太り気味の者が多く、これらを是正する為には、良質のタンパク質が必要とも言われているからである。もっとも、卵食を勧められるのはあくまで薬の服用や食餌療法により、血中コレステロール値がきちんと制限されている患者に限られる。また、勧められるとはいっても高脂血症患者が卵を無制限に食べてよいわけではなく、少なくとも健常時と同じ感覚で摂取するのは好ましくない。患者個々の状態により制限される数は異なるが、1日1個程度を目安に摂取するとよい。

鶏卵に含まれる蛋白質の栄養価は理想的とされ、アミノ酸スコア(蛋白質の栄養素としての価値を計る基準として、蛋白質を構成するアミノ酸のうち必須アミノ酸の組成により決定される)が最大値の100になっている。いっぽう、白米中に含まれる蛋白質はリシン、およびスレオニンの含量が低く、アミノ酸スコアも60とあまり良好とは言えないため、ここに卵を加えることでその栄養価を多少なりとも高める効果が期待できる。
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主に、悪玉コレステロールの多いのは黄身部分であるが、反面、白身はそれを打ち消す善玉コレステロールが多いとも言われている。また、全蛋白質のうち65%程度が卵白中に含まれている。卵黄に含まれる蛋白質に比べ、卵白のそれは栄養素としての質はやや劣るものの、卵かけご飯における栄養面の改善効果は黄身のみを用いる方法よりも、全卵を用いる方が高いといえる。

以下の表に、卵かけご飯の各栄養価を示した。 卵食は太ると思われ気味であるが、明らかに間違いである。朝食において良質のタンパク質や炭水化物を摂取する事は、1日の生活に於いてエネルギーの燃焼効率が良いと言われ、間接的には規則正しい食生活にも繋がり体重の軽減に役立つと見られている。

2009年11月29日

医療機関の対応

現在、CFSの診察を積極的に行っている医師はごく少数である。また、医師の間でCFSの認識は薄く、専門医でなければこの病気の可能性を見いだせなかったり、的確に診断できない場合がある。精神疾患等に誤診される場合があり、患者は多くの病院を訪れ(ドクターショッピング)、長年の後CFSの診断を受けることが多い。それでもここ数年は、政府の疲労プロジェクト・海外の研究報告によってCFSの研究が進んだこと、各メディアが取り上げるようになったことなどによって、認識が広まってきている。また、アメリカ政府が公的にCFSを認めたこともあり、今後の認知は深まると考えられる。

研究者としては倉恒弘彦氏(現在 関西福祉科学大学教授・大阪市立大学 客員教授)など。
突然にインフルエンザのような症状を呈し発症するか、疲労やストレス等の蓄積で発症し徐々に悪化するケースも多くある。
突然にCFSを発症し、ある日・ある時間に発症するということを覚えている患者もいる。

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しばしば、他の病気と一緒に、または、他の病気によって引き起こされる。インフルエンザや気管支炎などへの感染、アレルゲン(ペンキ・新しいペット・建設物の埃)への曝露後、CFSの症状が現れるようになる。組み替え型のB型肝炎ワクチンがCFSの発症原因の一つではないかという説もある。

いくつかのケースでは、ゆっくりとしたペースで(何年にも渡るケースがある)進行する。こうした患者は、発症時にはCFSに気が付きにくい。ストレスや過労からだと思い、しばらくすれば治ると思ってしまうが、長く症状が続くので治療を求めるようになるようである。

2009年11月24日

正倉院展

正倉院宝物は通常時、非公開である。1875年?1880年、毎年開催された奈良博覧会の一環として、東大寺大仏殿回廊で、一部が一般に公開された。1889年?1940年では、正倉院内の陳列棚を設けて、曝涼(宝物の「虫干し」のことで定期的に行われる)の際に限られた人々に拝観を許していた。また、外国の高官のため、特に開封することもあった(例、1922年英国皇太子拝観)。

戦前の大規模な一般公開は、1940年11月の皇紀2600年記念として東京の帝室博物館で開催された正倉院御物特別展であった(約140点)。戦後、1946年に近隣の奈良公園内にある奈良国立博物館で正倉院展(第1回)が行われ、翌年以降、秋の2ヶ月の曝涼にあわせて開催されるようになった。正倉院展は2008年に第60回を迎えた。

管理する宮内庁が整理済みの宝物だけで9000点に上るが、このうち正倉院展で公開される宝物の品目は毎年変更され約70点のみである。よって代表的な宝物を見るには複数年の見学が必要になる。学芸員が手作業で点検と陳列を慎重に行うがそれに前後約40日の時間を必要とするため、開催期間は約2週間程度と短い。毎年多くの見学者を集めている。
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校倉造、屋根は寄棟造、瓦葺。規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3メートル、床下の柱の高さ約2.5メートルである。

建立時期は不明だが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年(天平勝宝8)前後とみるのが通説である。759年(天平宝字3年)以降、宝物出納の記録が残っていることから、この年までに建立されていたことがわかる。当初の正倉院の建物構成についてはわかっておらず、記録によれば、平安末期には現存する宝庫1棟を残すのみであったらしい。

2009年11月04日

宝永大噴火以来

宝永大噴火以来300年にわたって噴火を起こしていないこともあり、1990年代まで小学校などでは富士山は休火山と教えられていた。しかし先述のとおり富士山にはいまだ活発な活動が観測されており、また気象庁が休火山という区分を廃止したことも重なり、現在は活火山としている。

2009年10月に、GPSによる富士山の観測で地殻変動が確認された。これは1996年4月の観測開始以来初めてのことである。この地殻変動により最大2センチの変化が現れ、富士宮市-富士吉田市間で約2cm伸びた。これはマグマが蓄積している(活火山である)現れとされている。

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噴火に関する記録
噴火の年代が考証できる最も古い記録は、『続日本紀』に記述されている、天応元年(781年)に富士山より降灰があったくだりである。平安時代初期に成立した『竹取物語』にも、富士山が作品成立の頃、活動期であったことを窺わせる記述がある。

宝永大噴火についての記録は、新井白石による『折りたく柴の記』をはじめとした文書、絵図等により多数残されている。
その後も、噴煙や鳴動の記録は多く残されているが、記述から見て短期間かつ小規模な活動で終わったものと推測される。

2009年10月28日

海草藻場

海草群落(海草が密生している場所)を海草藻場(かいそうもば)と呼び、その中でもアマモ属が繁茂する場所をアマモ場(アジモ場)と呼ぶ。しかし構成種を厳密に区別せずにアマモ場と呼ぶこともあるので留意する必要がある。

この海草藻場は、海藻の群落である(海藻)藻場と同じく沿岸域に分布し、魚介類などの生息・繁殖の場となっている。また。ジュゴンやアオウミガメ等のように直接海草類を食べる動物もいる。また(海藻)藻場と同様に水質浄化の機能も有している。
海草藻場は多くの海産生物の生息・繁殖の場となっているため、漁業やレクリェーションの場として利用される。陸地からの汚濁した水質の浄化も期待されている。
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日本の静岡県浜名湖では1950年代までアマモを堆肥として利用しており(モク採り)、直接的に海草類を利用する例もある。

海草類は沿岸域に生育するため埋立や水質汚染などの影響を受ける。直接生育地が埋め立てられなくても、埋立に伴い海流が変化し、砂泥が流され、底泥環境が変化するなどの間接的な影響もある。また、地球温暖化による海水温の上昇により海草群落の減少も知られている。

日本産の海草類のうち5科17種が2007年に公表された環境省の維管束植物レッドリストに掲載されている(このうちネジリカワツルモは上記の大場・宮田(2007)のリストでは認めていない)。保全対策として泡瀬干潟などで行われている大規模な埋立事業の代替措置として海草群落の移植が行われている。

2009年10月18日

平成8年の法改正

1970年代から1980年代にかけて、農村漁村の過疎化と高齢化が進み、伝統的な民俗芸能や伝統行事が消滅する危機が増大した。一方で、文化に対する国民の関心も高まり、地域の文化遺産を活かした町づくり・村おこしといった文化遺産の活用の試みも着目されるようになった[14]。幕末から第二次世界大戦期までの日本の近代化に貢献した産業・交通・土木に係る文化遺産についても、消滅や散逸の危機が認識されるようになったため、文化庁ではこれらを近代化遺産として位置づけ実態調査を行った。また、1992年(平成4年)に日本が世界遺産条約を批准したことで、近代の遺跡である原爆ドームを世界遺産へ推薦する運動が起こり、1995年(平成7年)に史跡の指定基準が改正された。原爆ドームは同年中に国の史跡に指定され、世界遺産へ推薦された。

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1996年(平成8年)の法改正では、建造物に関する登録有形文化財の制度の導入、指定都市等への権限の委任及び市町付の役割の明確化、重要文化財等の活用の促進が盛り込まれた。登録制度は、主に近代の建造物の保護を目的として、指定制度を補完する制度として導入されたものである。建造物のうち指定物件以外のもので保存及び活用が必要とされるものを文部大臣が文化財登録原簿に登録するもので、指定文化財が現状変更について許可制を取るのに対し、届出制と指導・助言・勧告を基本とするなど、緩やかな保護制度である点に特色がある。

2001年(平成13年)1月、中央省庁再編が行なわれ文部科学省が設置された。文化庁に関しては各種審議会が統合されて文化審議会が設置され、従前の文化財保護審議会は文化審議会文化財分科会として再編された。

2009年06月18日

抗不安薬(こうふあんやく、minor tranquilizer)

抗不安薬(こうふあんやく、minor tranquilizer,antianxiety drugs)は、マイナートランキライザーとも言い、精神疾患に使われる向精神薬の一種である。弱い安定剤と言われている様に抗精神病薬と呼ばれるメジャートランキライザーと比べても作用や副作用は弱い。

抗不安薬には、脳神経に作用し、不安(恐怖)・緊張といった症状を緩和させる作用がある。睡眠時の緊張を緩和させる事から睡眠薬として利用される場合もある。パニック障害、不安障害、ストレス障害(PTSD、急性ストレス障害)など不安をともなう疾患に多く利用されている。また、症状によっては内科などでも処方され、手術の麻酔前に投与されることがある。

現在、日本国内において一般的に利用される抗不安薬は、ベンゾジアゼピン系とチエノジアゼピン系に分類されるものがほとんどである[1]。

ベンゾジアゼピン系は以前によく使われていたバルビツレート系に比べ安全性が高く、副作用も比較的少ない。しかし、乱用すれば依存性が生じる恐れがあるため専門医による処方が必要である。特にデパスなど「短時間作用型」に依存性が高い傾向が見られ、メイラックスに代表される「超長時間作用型」では、依存性や禁断症状が少ない。

短時間作用型
エチゾラム(商品名:デパスなど)チエノジアゼピン系。睡眠薬として出される場合もある。
クロチアゼパム(商品名:リーゼなど)チエノジアゼピン系。
フルタゾラム(商品名:コレミナール)ベンゾジアゼピン系。
トフィソパム(商品名:グランダキシンなど)ベンゾジアゼピン系。
中時間作用型
ロラゼパム(商品名:ワイパックスなど)ベンゾジアゼピン系。
アルプラゾラム(商品名:ソラナックス、コンスタンなど)ベンゾジアゼピン系。
ブロマゼパム(商品名:レキソタン、セニランなど)ベンゾジアゼピン系。
長時間作用型
クロキサゾラム(商品名:セパゾン)ベンゾジアゼピン系。
フルジアゼパム(商品名:エリスパン)ベンゾジアゼピン系。
ジアゼパム(商品名:セルシン、ホリゾンなど)ベンゾジアゼピン系。
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クロナゼパム(商品名:ランドセン、リボトリール)一般的には抗てんかん薬として使われる。
メダゼパム(商品名:レスミットなど)ベンゾジアゼピン系。
クロラゼプ酸二カリウム(商品名:メンドン)ベンゾジアゼピン系。
クロルジアゼポキシド(商品名:コントール、バランスなど)ベンゾジアゼピン系。
オキサゾラム(商品名:セレナールなど)ベンゾジアゼピン系。
メキサゾラム(商品名:メレックス)ベンゾジアゼピン系。
超長時間作用型
プラゼパム(商品名:セダプラン)ベンゾジアゼピン系。
ロフラゼプ酸エチル(商品名:メイラックスなど)ベンゾジアゼピン系。
フルトプラゼパム(商品名:レスタス)ベンゾジアゼピン系。
その他
クエン酸タンドスピロン(商品名:セディール)アザピロン系 セロトニン5-HT1A受容体作動薬

副作用 [編集]
大半の抗不安薬はベンゾジアゼピン系であるために、ベンゾジアゼピン系特有の副作用がある。比較的安全と言われているが、アルコールとの併用は奨められておらず、ベンゾジアゼピン受容体の作用でベンゾジアゼピン健忘を引き起こす副作用がある薬剤もある。眠気を誘発するため、自動車の運転などと言った危険を及ぼす作業などは避けるべきである。また長期の服用で依存や急な断薬による離脱症状を起こす場合があるため注意が必要である。ベンゾジアゼピン系の抗不安薬でまれにうつ病を悪化させることがある。

2009年06月01日

ラマルク以降の進化論

イギリスの解剖学者ロバート・グラントはラマルクの「種の変化」学派の影響を受けた。グラントに影響を与えたもう一人、エティエンヌ・ジョフロア・サンティレールは様々な動物の解剖学的特徴の相同性やボディプランの類似を論じ、これはキュビエとの間に激しい論争を引き起こした。グラントは種の変化と進化についてエラズマス・ダーウィンとラマルクの考えを証明するために海洋生物の解剖学の研究を行い権威となった。ケンブリッジ大学の若い学生であったチャールズ・ダーウィンはグラントに加わって海洋生物の調査を行った。1826年に匿名の記事がラマルクの進化思想を称賛した。このとき初めて現在的な意味で「進化」が使われた。

1844年にスコットランドの出版業者ロバート・チェンバースは匿名で『創造の自然史の痕跡』を出版した。これは幅広い関心と激しい論争を引き起こした。この本は太陽系と地球の生命の進化を提案した。彼は化石記録が人間に繋がる上昇を示しており、他の動物は主流を外れた枝だと論じた。進化が定められた法則の発現であるとする点でグラントのより過激な唯物論より穏やかであったが。人間を他の動物と結び付けたことは多くの保守派を激怒させた。『痕跡』に関する公的な議論は進歩的進化観を含んでおり、これはダーウィンの認識に強く影響した。キュビエは種が不変であると主張し続け、ラマルクとサンティレールを攻撃した。キュビエの主張と科学的地位の高さは「種の不変性」が科学界の主流でありつづける助けとなった。

イギリスでは自然神学が力を持ち続けていた。ウィリアム・ペイリーの時計職人のアナロジーで有名な『自然神学』は一部はエラズマス・ダーウィンの種の変化に対して書かれた。地質学者は自然神学を受け入れており、バックランドやアダム・セジウィックはラマルク、グラント、『痕跡』の進化思想を攻撃した。聖書の地質学を批判したライエルも種は不変であると考えていた。ルイ・アガシーやリチャード・オーウェンのような思想家も種は創造主の心を反映しており不変だと考えていた。彼らは化石記録と同様に、発生パターンの種間の類似性にも気付いていたが、神の行為の一部だと考えていた。オーウェンは相同性の研究から神が創造した「原型」が一連の類似種を生み出すのだと考えた。ダーウィンはオーウェンの相同性の研究を自分の理論の発展に用いた。『痕跡』が引き起こした論争は考えの性急な公表を思いとどまらせた。

チャールズ・ダーウィンは、1831年から1836年にかけてビーグル号で地球一周する航海をおこなった。航海中に各地の動物相や植物相の違いから種の不変性に疑問を感じ、ライエルの『地質学原理』を読んだ。そして地層と同様、動植物にも変化があり、大陸の変化によって新しい生息地が出来、動物がその変化に適応したのではないかと思った。1838年にマルサスの『人口論』を読み自然選択説を思いついたと自伝には書かれている。ハトの品種改良についての研究でさらに考えがまとまっていった。

1858年にアルフレッド・ウォレスがダーウィンに送った手紙に自然選択説と同様の理論が書かれていたことに驚き、自然選択による進化理論を共同で発表したダーウィンはさらに執筆中であった『自然選択』と題された大著の要約をまとめ、1859年11月24日に『種の起源』として出版した。

『種の起源』のなかでは、現在の「進化」を指す用語として、あらかじめ内在的に用意された構造の展開出現を意味する"evolution"ではなく、「変更を伴う由来」(Descent with modification)という語を使っている(evolutionの原義については下の項目を参照のこと)。また自然選択(natural selection)、存在し続けるための努力(struggle for existence、現在では通常生存競争と訳される)、そして後の版ではウォレスの提言を受け入れ自然選択をわかりやすく説明する語としてハーバート・スペンサーの適者生存を使用した(生存競争や適者生存は誤解を招きやすいために近年では用いられない)。これらの要因によって環境に適応した形質を獲得した種が分岐し、多様な種が生じると説明した。
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ダーウィンの説の重要な部分は、自然淘汰(自然選択)説と呼ばれるものである。それは以下のような形で説明される。
生物がもつ性質は、同種であっても個体間に違いがあり、そのうちの一部は親から子に伝えられたものである。
環境収容力は常に生物の繁殖力よりも小さい。そのため、生まれた子のすべてが生存・繁殖することはなく、性質の違いに応じて次世代に子を残す期待値に差が生じる。つまり有利な形質を持ったものがより多くの子を残す。
それが保存され蓄積されることによって進化が起こる。
生物の地理的分布や、異性間に起きる選択である性選択についても説明した。
当時は DNA や遺伝の仕組みについては知られていなかったので、変異の原因や遺伝についてはうまく説明できなかった。ダーウィンの遺伝理論はパンジェネシス説と呼ばれ、獲得形質の遺伝や当時主流であった融合遺伝を認めていた。また発生と進化を明確に区別していなかった。
変異はランダムな物であると考えた。ここで言うランダムとは「規則性が全く無い」と言う意味ではない。ダーウィンは変異について確実なことを述べられるような知識を何も持っていなかった。変異がランダムであるとは、変異それ自体には進化の方向性を決める力が内在しないと言う意味である。
進化を進歩とは違うものだと認識し、特定の方向性がない偶然の変異による機械論的なものだとした。
「自然は跳躍しない」という言葉で、進化は漸進的であると主張した。これは「進化は一定速度で進む」事を意味しない。文字通り跳躍的な進化を否定するのみである。進化は小さな遺伝的変異の蓄積によって起きる。その結果として、体節数の変化のような大きな形態的変化が起きる可能性はあるが、目や脳などが一世代でできることはない。
一つあるいは少数の祖先型生物から全生物が誕生した。そして一つの種が二つに分かれる過程を種分化と呼んだが、種分化のメカニズムに関しては深く追求しなかった。
ダーウィンは、進化の概念を多くの観察例や実験による傍証などの実証的成果によって、進化論を仮説の段階から理論にまで高めたのである。

ウォレスは性選択説を認めず非適応的と思われる形質(例えばクジャクの羽)も自然選択で説明しようと試みたが、これは現在の優良遺伝子説に近い説明であった。またウォレスは人間の高い知性や精神的能力は神のような超自然的存在の干渉によるものだと考えた。

2009年04月28日

サン=フェリペ号事件

サン=フェリペ号事件(サン=フェリペごうじけん)は、1596年に起こった土佐でのスペイン船の漂着事件。豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害(日本二十六聖人殉教)のきっかけとなったとされる。

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豊臣秀吉は1587年にすでにバテレン追放令を発布していたが、南蛮貿易の実利を重視した秀吉の政策上からもあくまで限定的なものであったため、黙認という形ではあったが宣教師たちは日本で活動を続けることができた。また各地のキリシタンも公に迫害されたり、その信仰を制限されることはなかった。サン=フェリペ号事件はそのような状況下で起こった。

1596年(慶長元年)7月、フィリピンのマニラを出航したスペインのガレオン船サン=フェリペ号がメキシコを目指して太平洋横断の徒についた。同船の船長はマティアス・デ・ランデーチョであり、船員以外に当時の航海の通例として七名の司祭(フランシスコ会員フェリペ・デ・ヘスースとファン・ポーブレ、四名のアウグスティノ会員、一名のドミニコ会員)が乗り組んでいた。サン=フェリペ号は東シナ海で複数の台風に襲われ、甚大な被害を受けた。船員たちはメインマストを切り倒し、四百個の積荷を放棄してまでなんとか難局を乗り越えようとした(この航海における航海日誌は後に日本で没収されたため現存しないが、後に船長のランデーチョが『サン=フェリペ号遭難報告書』を記し、これがセビリアのインディアス古文書館に残されている)。しかし、船はあまりに損傷がひどく、船員たちも満身創痍であったため、船長は日本に流れ着くことだけが唯一の希望であった。

10月になって船は四国土佐沖に漂着し、知らせを聞いた長宗我部元親の指示で船が浦戸湾内へ曳航されたが、湾内の砂州に座礁してしまった。船員たちは長浜の町に宿を与えられたため、一同で協議の上、船の修繕許可と身柄の保全を求める使者に贈り物を持たせて秀吉の元に差し向け、船長のランデーチョは長浜に待機した。しかし、使者は秀吉に会うことを許されず、代わりに奉行の一人増田長盛が浦戸に派遣されてきた。使者の一人ファン・ポーブレが前もって戻ってきて、積荷が没収されることと自分たちも処刑される可能性があることを伝えると船員一同は驚愕した。

増田らは到着すると「スペイン人たちは海賊であり、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない」という秀吉の言葉を告げた。その後、増田らは船員全員の名簿を作成し、積荷の一覧を作ってすべてに太閤の印を押した。船員たちは町内に幽閉された上、所持する金品をすべて提出するよう命じられた。増田らの一行は積荷と船員の所持品をすべて没収し、航海日誌などの書類をすべて取り上げて破棄すると、都に戻っていった。

2009年04月13日

鄧 芝(とう し、? - 251年)

鄧 芝(とう し、? - 251年)は、中国、後漢末期から三国時代・蜀漢の行政官・武将・政治家。字は伯苗。荊州・南陽郡新野(現在の河南省南陽市新野県)出身。後漢初期の名臣にして司徒まで上り詰めた鄧禹の末裔である。鄧良の父。

益州(現在の四川省東部)には劉璋が統治する時代(194年から214年)に入った。まだ無名の時期に益州の従事の張裕が人相をよく見ると聞き訪ねていくと、「70歳を過ぎて大将軍となり侯に封ぜられる」と評価された。その後、巴西郡の太守・龐羲がよく士を好むと聞き身を寄せた。劉備が劉璋を打倒して益州を平定すると、転じて劉備に仕えた。あるとき劉備と語らった際に高く評価され、以降抜擢されて郫県令・広漢(現在の四川省広漢市)太守を歴任した。清潔かつ厳格に統治を行って治績を挙げ、尚書となった。

223年、劉備死後の蜀は、跡を継いだ劉禅(後主)はまだ少年であり、三国の他の二国魏とも呉とも敵対しており、危険な状態であった。 鄧芝は蜀の丞相の諸葛亮に請われて呉に使いし、孫権を相手に巧みな弁舌で修好を回復させた。なお、『三国志演義』では孫権が蜀の使者を脅すために置いた熱された大きな釜を罵倒、それに怒った孫権を諭した上で命がけで同盟を結ぶと言い釜に飛び込もうとし、それに驚いた孫権が感服し蜀と再び同盟を結んだ。自ら諸葛亮の北伐の時期には中監軍・揚武将軍として軍を支えた。第一次北伐では趙雲の副将として箕谷道を守備したが、曹真の大軍に敗れている。その後も要職を歴任し、車騎将軍(高位の将軍職)・江州の都督となった。呉に使いして以来、孫権からは度々手紙や贈物があった。248年、涪陵(現在の重慶市)で反乱があったが、これを鎮圧して民衆を安堵させた。251年、没した。『三国志』蜀書・宗預伝にある会話から、247年の時点で70歳を越えており、諸葛亮より年上であった事が確認できる。

清廉な人物として知られ、兵卒らにはよく施しをしながらも、自らは質素倹約に努めて私腹を肥やすこともなく、顕官にありながら妻子にひもじい思いをさせ、財産も残さなかった。性格は剛毅で飾り気なく、士人とうまくつきあえなかった。人を高く評価することは少なかったが、姜維の才能は買っていた。こういった評価は、『三国志』の著者である陳寿が蜀の生まれでかつ彼が18歳のときまで鄧芝は生きていたこともあり、陳寿自身実際に聞いていたであろう。

一子鄧良が爵位を継いで尚書左選郎となり、魏の鄧艾が成都に迫ると降伏の使者として鄧艾に接見し、蜀滅亡後の西晋では父と同じ広漢の太守となった。(『三国志』「蜀書」・鄧芝伝)

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